中日・大島、2度目交渉も平行線、保留 年俸調停が現実味か? [スポーツニュース]
中日・大島、2度目交渉も平行線、保留
年俸調停が現実味か?
大島、球団との2回目の契約更改交渉、1時間で
結果は保留で、球団の提示は7400万
大島自身昨年度は、限度枠一杯迄下げられま
したが、その際に、落合GMより来季は悪かった
ら下げる、良かったら上げる…って言われて
いるらしいですね。
そして今年は自己最高成績でした。
しかし、昨年度の年棒より低い提示なんですね
そこで、大島が自分の希望と違うために、球団が
大島自身と同程度の成績を出した選手に対して
今まで、どれ位の年収額を提示したかのデータ
を算出して今回の交渉に臨んだそうです。
その結果から算出した額は9000万位。
球団の説明は今シーズンはセリーグ6球団中
4位の成績、最低でも準優勝くらいであれば
希望額での契約更新は可能であるが、4位では
球団提示額の7400万が限度である、とのこと。
昨年の契約更新時にGMから言われた事を
胸に今シーズンは自己最高の成績でチーム
に貢献した、と自負している。
去年限度枠いっぱい下がったが今年はしっかり
やったと思う。
今回の交渉では自分の考えていることは言った、
今はスッキリしている、年内にもう一度交渉
に臨みたい。
自分の希望額は伝えましたので球団の提示が
変わらないなら調停になるでしょうが、球団代表
何とか解決したいとは話してくれました。
大島自身自分の要求額は中日球団の過去の
データーを基に算出し、当然の要求だと
考えているようです。
彼の話した、球団との交渉がまとまらない場合は
調停という話をしていますので、その年俸調停
について調べてみました。
◇年俸調停とは
実情
選手の権利とされる年俸調停だが、年俸調停を
申請する選手は非常に少なく、制度が導入されて
40年以上経過した時点で調停に至ったのはわずか
7選手しかおらず、球団提示額より上積みを勝ち
取った選手は3選手しかいない。
さらに、調停後に契約した選手は、これが要因
・遠因となったかは不明にせよ、その後3年以内
に戦力外通告やトレード、あるいはFA権を行使
しての移籍により退団している。
1996年オフに石井浩郎(近鉄)が野球協約制限
を超える50%ダウンの年俸提示をしたため、
年俸調停を申請。
日本野球機構からの要請を受け、いったん契約
した後に巨人へトレード移籍した。
2001年の下柳剛(日本ハム)の際には、球団側
は一度は1億3,900万円を提示したにもかかわらず、
年俸調停に持ち込む場合は1億3,750万円を提示
するとして、提示額を引き下げてしまった。
調停の申請が選手の権利であることから、こ
引き下げには批判が出た。
2007年オフにG.G.佐藤(西武)が球団との5度目
の交渉決裂から年俸調停を申請したが、パ・
リーグ小池唯夫会長は西武球団とG.G.佐藤から
申請された年俸調停を受理せず、もう一度両者
で話し合いを行うよう指示した。
これは「参稼報酬は両者が話し合って決める
のが大原則」という小池会長の考えによる。
2010年オフに柴原洋(ソフトバンク)は野球
協約の定める減額制限(1億円超は40%)を
超えた約60%ダウンとなる5000万円の提示
れた際に、制限の7200万円を希望し、年俸
調停を申請した。
球団は選手の同意を得たとしていたが、
コミッショナーは「制限を超える減額に
ついての同意があるのかが不明」として
受理せず、双方に話し合いを求めた
その後、双方が折れて契約した。
従来は、実際は調停委員を構成するコミッショナー
及び連盟会長の任命権限は各球団にあるため、
選手側が勝利する可能性は限りなく低かった。
しかし、2009年に野球協約が改正され、
調停委員会がコミッショナーから独立した。
改正によって「中立機関」となった最初の
ケースである西武の涌井秀章の場合、
調停委員会のメンバーは2人の弁護士と、
前巨人監督で元選手の堀内恒夫の3名となった。
過去に調停が妥結した事例
表の年は、当年シーズン終了から翌年シーズン
開始までの期間、すなわちシーズンオフを
意味しており、調停が行われた年ではない。
太字は球団提示額より上積みの金額。
引用サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F
%82%E7%A8%BC%E5%A0%B1%E9%85%AC%E8%AA%BF
%E5%81%9C
過去の事例は年俸調停を行っても、ほとんど
球団の方に有利な気がしますね。
しかし、大島選手も契約更新時の言葉を胸に
自己最高の成績と今までの球団報酬データーを
提出していましから、何とか大島選手の要求額
で決着を望みますね。
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