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山本譲二が北島ファミリーから独立8年目か! プロフィールは? [芸能ニュース]

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「みちのくひとり旅」、山本譲二さんと言えば、

この曲、そして今まで彼をここまで育ててくれた

北島三郎さんとの強い師弟関係かな。

 

 

北島三郎さんは山本譲二さんを自分の息子のように

可愛がり、今でも、山本さんは「おやじ」と親しんで

いるようです。

 


今でも北島ファミリー所属歌手といえば、まず

山本譲二さんの名前が出てくるような立場では

ないでしょうか。

 

 

北島三郎さんと親子以上と言えるような強固な

師弟関係にある山本譲二さんが2007年から独立し

事務所設立をされました。

 


今から8年も前になりますが。

 


どうして、独立だったの?

実は、山本さんはと北島さんとの仲違いが

噂されていたんですが。

 


山本さんが黒い組織とのトラブルで北島さんの

逆鱗に触れ、ファミリーから破門されたという

噂でした。

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実際に噂だけだったのですね。

 


山本さんは第55回、2004年の紅白歌合戦まで

出場されていますが、それ以降は出場機会は

ないようですね。

 


師匠である北島さんと同じ紅白出場した時には

当然北島さんは自分より後に出番になるわけです。

 


そのような時には、自分が歌い終わっても北島さん

、自分の師匠が歌う時には座って聞くのではなく

画面に映らない舞台袖に立って待機しているのだ

という話を読んだ事があります。

 


師匠である北島三郎さんに対する「畏敬の念」

が自然に出たのでしょう。

 

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不遇の時代から鞄持ちに採用されても、また不遇時代

が続き、それでも辛抱強く自分を見守り、育ててくれ

た、大きな大きな感謝の念が自然に出たのでしょうね。

 

山本譲二さんの性格や日頃の思いがわかりますね。

 


しかし、後に北島さんの娘さんと結婚する北山

たけしさんが選ばれ始めると山本さんは選出

されなくなりました。

 

 

北島音楽事務所は同族経営だそうで、将来は

娘婿の北山さんが経営陣の一人に就任することは

予想されますね。

 

 

実際は独立という形式になっていますが、北島さんの

山本さんに対する思いやりもあり、実際は暖簾分け

の様な状態になっており、今でも北島音楽事務所との

業務提携という形式での強い繋がりがありそうです。

 

 

山本さんが「墓場まで持っていく話もある」ってのは、

仕事の事はもちろん、一人前の歌手に育ててもらった

北島さんへの感謝の心があることから出た言葉と

思いますね。

 


山本さんの人間性の出た言葉でしょうね。

 


演歌の世界の歌詞ではないですが、義理と人情だけでは

生きていけない、この世の中、不器用でもこの様な

生き方しか出来ない男がいるのですね。

 

 


山本譲二

基本情報

出生名    山本譲二

別名    琴五郎(筆名)

伊達春樹(旧名)

出生    1950年2月1日(64歳)

出身地    日本の旗 日本 山口県下関市

学歴    早鞆高等学校

ジャンル    演歌

職業    演歌歌手、俳優

担当楽器    歌

活動期間    1974年 -

レーベル    ポニーキャニオン

(1980年 - 1999年)

テイチクエンタテインメント

(2000年 - )

事務所    北島音楽事務所→ジョージ・プロモーション

共同作業者    北島三郎

小金沢昇司

公式サイト    山本譲二公式サイト

 

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不遇の下積み時代[編集]

演歌歌手になりたくて上京。多くの

職を転々とする。クラブのボーイ時代、

お客の飲み残しのビールを飲み干す。

中にはタバコの吸い殻がたくさん入っていた。


肝臓を壊しやむなく帰郷、ひっそりと療養生活

を送る。母親の叱咤で強い決意を持ち22歳で再び上京。

再び職を変えながらスナックでギターを手に2年間

弾き語りを続ける。

 

たまたま店に来た浜圭介に誘われ芸能界入りした。

1974年、映画「ダーティハリー」にかけて、

「伊達春樹」という芸名でビクターからシングル

「夜霧のあなた」でデビューしたが、パッとせず、

崖っぷちに立たされた。

 


北島三郎との出会い[編集]

最後の決意で北島三郎の仕事場に何度も足を運び

頭を下げ、十数回繰り返したときに北島から突然、

鞄(かばん)を渡された。

 

即ち「鞄持ちになれ」という意味であり、以降

2年間北島の付き人を務める(当時の北島はま

だ30代前半と若く、筋骨隆々としていたため、

甘え容赦ない修行の毎日をすごした)。

 

25歳だった。これを契機に1976年、読売テレビ制作

の歌謡オーディション番組「全日本歌謡選手権」

(当時は浜村淳が司会)に出場、「おもいで岬」や

「中の島ブルース」などを歌って見事10週勝ち抜いた。

 

本名でもある「山本譲二」名義でポニーキャニオン

から再デビュー。またも鳴かず飛ばずが続く。

 


みちのくひとり旅で大ヒット[編集]

1980年、30歳の時に『みちのくひとり旅』をリリース。

北島等からは「この曲で駄目(売れない)なら、もう

(歌手を)諦めろ」と言われていたと言う。

 

しかしこの曲も発売当初は売れず大ヒットには更に

10ヶ月を要した。年を越し1年近くが経過。1981年、

フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に注目曲として

出演すると大きな反響を呼び大ヒット、31歳の時だった。

 


この『みちのくひとり旅』で1981年末の「第23回日本

レコード大賞」ロング・セラー賞を受賞、さらに

「第32回NHK紅白歌合戦」の初出場も果たす。

 

最終的なレコード売上は130万枚[3]を記録した。

なお、同曲がヒットしていた頃、あるテレビ番組

の企画で無人の甲子園球場のマウンドでこの曲を

独唱したり、さらにTBSテレビの「ザ・ベストテン」

では、上半身裸で褌一丁の姿をさらけ出しながら

歌唱したこともあった。

 


こうした経緯から北島を親父と慕い、北島ファミリー

の旗頭的存在となった。

 

代表的な歌曲に『みちのくひとり旅』、

『旅の終りはお前』、『奥入瀬』、『花も嵐も』、

『名もない花に乾杯を』、『浪漫-ROMAN-

(「憲三郎&ジョージ山本」として)』など

(もちろん長年の修行が実った上で初めて親父

と呼ぶことを許された。それまでは先生という

呼び方をしないと厳しく叱責された)。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki

/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%AD%B2%E4%BA%8C

 

 

山本譲二さん、今日記事を書いて、彼の人間性

に触れた思いです。

 

まえから歌はよく聞いていましたが、よりフアンに

なりました。

 


奥さんの病気のこと、お子さんのこと、家族の

病気を経験し、表では見えてこない大変な経験を

されているということ。

 

これからも、頑張ってほしいですね。




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